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2017.06.16

「文化政策は、適材適所な人材に任せること」地域発信から見えた、“ソト”と“ヨコ”の活かし方—野田邦弘さん(鳥取大学教授)《アーツマネジメント講座2017 講座2(6/2)レポート》

「地域文化を豊かにするためにできることは?」

講師も受講者も、立場や視点は違えど、沖縄に根ざした文化芸術を残し、広げていきたい、そんな志を共有する「アーツマネジント講座」。

前回の講座は、「地方における施設の価値」「劇場を取り巻く負のスパイラル」「これからの文化振興のために」などのテーマで語り合う時間となりました。

今回のテーマは、「文化政策概論―文化政策とひとづくり・地域づくり」。鳥取大学地域学部教授の野田邦弘さんを講師に迎え、アカデミックな観点で「文化の役目」や「地方公共団体のあり方」について話を伺いました。

「行政を変えるための文化政策を」“タテ型”組織からの脱却を目指して

野田邦弘さん。横浜市職員として創造都市政策の策定を担当。2004 年より、文化経済学会日本理事(元理事長)、日本文化政策学会理事、文化庁長官表彰選考委員、鳥取県文化芸術振興審議会長などを兼任

 

「もともと、文化政策の目的は行政を変えること。行政に文化的な視点を持たせて、地域それぞれが個性的な文化を育てていこうという狙いがありました」

文化政策が生まれた背景について触れるうえで、野田さんはそう話します。

1979年、「自治と文化」をテーマに開かれたシンポジウムで、地方公共団体は自主的に文化を創造していくものだと捉えられました。しかし、「文化芸術は美・感性、行政は合理性・効率」と評されるように、今までの文化芸術は、成果や数値化で客観的に評価できないために行政とは相容れない存在でした。

国が定めた形式的な評価や合理的な考え方に基づき、政策を体系化する地方公共団体(「行政」を含む)では、上から下に流れていく“タテ型”の組織がこれまでの基盤となっていたのです。

「普遍的な価値観を重んじる行政が、多様な価値観を容認する文化の舵取りしようとしても、難しいのは一目瞭然です」と指摘する野田さん。

こうしたタテ型の組織を変えていく行政改革のエンジンとして、期待されたのが文化政策でした。しかし、バブル景気によって推し進められたのは、ハコモノの建築と、その管理のための文化振興財団の設立。

一方、2003年には、それまで地方公共団体や外郭団体に限定していた公の施設の管理・運営を、営利企業や財団、NPO法人などに代行させることができる「指定管理者制度」が導入されました。指定管理者への要件は各地方公共団体によって異なりますが、経営効率化が追求される側面も出てきました。

地域文化と経済をゆるやかに融合させ、新たな課題解決のアイデアを生む「創造都市」構想が先進国で広がっていく

芸術や制作、また広告業といったクリエイティブな方も会場で、これからの行政との関わり方に耳を傾けます。

文化施設の建設が日本国内で広がるなか、海外では新たな概念が生まれていました。

2000年代、工業化社会で成長してきたイギリスのような先進国では、脱大量生産の先を見据え、新たな都市経済のかたちを模索しはじめました。ものづくりを基盤におきながらも、文化芸術の発想を取り入れ、地域課題に対して、革新的アイデアや仕組み、関係性づくりでの問題解決を目指したのです。

そういった、産業経済と文化芸術との融合を図る都市が「創造都市」と呼ばれ、各国でその実践が広がっていきました。例えば、デンマークのアーフスという町では、地域に根づくバイキング(海賊)の歴史になぞられた数百ものショーが上演され、現在都市を超えて他のヨーロッパの国々に文化が広がっています。

「創造都市は、(新築の建物、新しい設備などが)きれいに揃ったところではなく、歴史のある地域や古いビル群で育ちます。彼らは、快適な気候と想像力が働く地域に集まっているといえます」

2004年には、ユネスコで「創造都市ネットワーク」プロジェクトを採用。世界中の都市から7つの創造分野(文学・映画・音楽・工芸・デザイン・メディアアート・食文化)で創造都市を認定するもので、日本では約4万人規模の小さな街「篠山」も選出されました。

創造都市という考え方の普及と共に、小さな都市においても独自の経済発展と文化を享受できるような社会を実現していく転換期がやってきました。

「過疎をポジティブにする」日本版創造都市が生まれるまで

日本における「創造都市」を反映した動きは、地方発、徳島県にある全人口5000人ほどの神山町で生まれました。ここでは「創造的過疎」という言葉が用いられます。「一般的には、“過疎”という言葉はネガティブなイメージを持たれやすい。そこで、神山町では“創造的過疎”というフレーズにして、地域にポジティブな雰囲気を創り出していったのです」

「リーマン・ショックや東日本大震災が起きたことをきっかけに、田舎に移住する若者が増えていきました。シリコンバレーの一角、古びたガレージから始まったGoogle、Appleのように、革新的なサービスが日本では山間部や河川地域に生まれつつあります」

全人口の47パーセントが高齢者、過疎地域と呼ばれる神山町。この町の行く末を危惧した民間団体のNPO法人「グリーンバレー」は、1997年に「とくしま国際文化村プロジェクト」をはじめ、アーティストたちの移住を促しました。こうした動きが企業にも波及し、東京の企業にサテライトオフィス誘致として商店街の一角を利用してもらえるようになりました。

旧藤野町(現・相模原市)では、行政主体の「藤野ふるさと芸術村構想」から始まり、現在民間主体の取り組みが増加しているとのこと。

「旧藤野町は、芸術家村づくりを進めていくなかで、日本初のシュタイナー教育の拠点『学校法人シュタイナー学園』が開設されたり、持続可能なまちづくりを目指した『トランジション藤野』という取り組みも生まれたり、NPO法人『パーマカルチャー・センタ―・ジャパン』が旧藤野町の里山に施設と農場を開設するなどの動きがありました。現在では、芸術家が300人ほど暮らしています」

神山町と旧藤野町、2つの地域にある共通点は何だったのか。それは「地方公共団体が『民間団体に全事業を任せよう』という関係性の再構築だ」と野田さんは話します。

「神山町や旧藤野町は、事業そのものを民間団体に託したことで、行政がすべき法制度の調整や、事業の評価に力を入れることができました。神山では行政の機能をあえて小さくし、若者にチャンスが与えることで、良い循環が生まれました」

「文化政策の鍵は、正しいお医者さんを見つけること」新しい生き方を応援できる“ヨコ型”組織へ

資本主義に基づく日本でも、「生産消費」「オープンソース」「ネットワーク」を軸にした地域資源と人的資源を共有する「協働型コモンズ」の考え方が台頭してきました。

神山町と旧藤野町、両地域にはもう一つ共通点があります。暮らしや働き方において新たな概念が浸透し、その実践者が多い地域でもあったのです。

例えば、インターネットを介し、空き家などの有形のものから、DIYや料理などの無形の技術・サービスまでを共有する「シェアリングエコノミー」や、農業と他の職業(X)を組み合わせた生き方「半農半X」などが挙げられます。

「これからは、ひととひととの信頼関係やネットワークによって、消費者と消費者がヨコでつながる社会が進んでいくでしょう」

「これからの文化政策は、文化振興を達成することがゴールとはいえません。地方公共団体の専門領域外にも波及させ、次世代に大きな夢を持てるようなまちづくりを通して地域文化を育てていくのです」

大きな都市で叶えられないことを、小さな都市やコミュニティに求め、移動していく「クリエイティブ人材の移住」。そういった動きに対して、行政はどのようなビジョンを描けるか。戦略や政策はあるのか、悩みはつきません。

「文化政策が成功する鍵は、人間でいう正しくお医者にかかって、健康診断をしてもらうことです。きちんと処方箋を出せる団体、もしくはどこにキーパーソンがいるのかリサーチすること。答えは現場に落ちているものです」

その野田さんの言葉をもって、講座は締めくくられました。

行政とソト者との関係性から、沖縄を捉えてみる

「行政と文化」と「都市と田舎」に関する事例が盛りだくさんの講義だっただけに、熱のある質問が飛び交った。

「今後は、いかに“ソト者”との付き合っていくべきか」という質問が受講者から挙がると、野田さんは、こう話してくれました。

「さきほどの神山町では、NPOグリーンバレーが主となって移住者促進活動をしています。それは、『街にデザイナーが欲しい』『パン屋さんがほしい』といった地元にある個人の声を汲み取り、地域外の人に投げかけることは行政では困難だからです」

では、この考え方を沖縄で置き換えると、どんなことができるでしょうか。

沖縄は、移住候補地として挙げられやすいですが、人口の流出入が激しい地域でもあります。2017年度のデータを見ると、他都道府県から沖縄に入ってくる方(4404名)と出ていく方(5801名)と逆転しています。

並行して、県庁所在地の那覇市でも、老朽化した商店街や空きスペースの活用方法が見い出せず、マンションや駐車場になっていく様を、私が移住してからの4年間にも幾度となく見てきました。

こういった遊休不動産を、ソト者が利活用しやすい仕組みが見つかれば、古きよき街並みの保存や、新しい文化の形成につながるかもしれないですね。

「鳥取県では、移住者が創造的な拠点として病院の空き室を借りて、人的なネットワークの構築を行なっている」と野田さんがいうように、ソト者も居やすく、動きやすい地域づくりを沖縄でも期待したいです。

(取材・撮影、文: 水澤陽介)

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